『エンジニア』として生きる

紆余曲折を乗り越えた『エンジニア』がブログをはじめました。

ブログをはじめようと思ったきっかけ

ブログを始める。

もう10数年前、社会人になりたての自分は、この歳になっても『エンジニア』という生き方を続けているとは絶対に想像しなかった。
それほど、就職活動の時は『エンジニア』というものに強い思い入れはなかったし、飽きっぽい性格も手伝って、すぐに違う生き方を選ぶと思っていた。
でも、今現在、事実として『エンジニア』という枠組みの中で生きているし、おそらくこれからも形を変えたとしても『エンジニア』として生きる気がしている。
そんな決意表明にも似た気持ちで、今までの棚卸や、素直な悩み、これからの展望を形に残そうと思い、ブログをはじめてみようと思った。

3度目の転職

2019年3月、3度目の転職をした。
転職に至ったきっかけは、いくつもある。
ポジティブなもの、ネガティブなもの。
でも、一番大きなきっかけは、もっとワクワクする成長がしたいと思ったことになる。

『エンジニアとしての自分』のポジションが組織で確立されてしまった。

3社目となる前職は、分社化や子会社出向も含め、トータルで4年在籍することになった。
『自社サービス』を創りたい、育てたいという一心で、事業会社に転職した。
いわゆる営業ドリブンな事業会社あるあるの、エンジニアの一斉退職ブームを乗り越えた数人のエンジニアで、Webサービスから社内インフラまで全ての面倒を見る自転車操業的に運用保守に追われていたし、その背景からも、積極的なIT投資を行わず、時代に逆行するかのような外部委託に依存したエンジニアリング組織になっていた。
世に名の出るエンジニアに比べると、技術力はカスみたいなものしかなかったけど、アプリ・ミドル・インフラまで広く浅い知識をもっていて、いわゆるエンジニアよりも少しだけ口が上手かったこともあり、その組織においてエンジニアとしてのポジションを確立することに、まったく時間がかからなかった。
そして、入社半年でシステム開発部のリーダーとなった。

なかなか抜け出せないジリ貧の日々

エンジニアリング組織のリーダーとして、少ない予算でやりくりしつつジュニアクラス(時にエントリークラス)のエンジニアを業務委託として外部から調達し、今を戦うために教育をしながら、多過ぎる技術的負債と立ち向かい、ビジネスサイド内での対立する改善要望を、調整し実現する日々。(本当に子供の喧嘩の仲裁みたいなことも多々あった。)
相変わらず自転車操業ではありながらも、誰も仕様を把握できていない状況は脱しつつあった。

それでも、気付いてしまう。
異なる思想、異なる目的のサービスを、お金も時間もないので、取り合えず同じ鍋に入れてグツグツ煮込み続けてみました!みたいな密結合で陳腐化し続けるサービスを、このまま回していてもジリ貧であると。(しかも、この鍋が過剰なオンプレ環境)
自分の頑張りだけではないが、開発部という組織に対する見方が変わり始めていたこと、ビジネスサイドからも強い要望として出ていたリニューアルという後押しもあり、ボード層からリニューアルプロジェクトの『準備を始めること』の承認を得ることができた。

プロジェクト計画を立てる

実務から離れているものの社内でたった一人の先輩エンジニア、ビジネスサイドの代表者と共にプロジェクト準備を進めた。
イニシャルコストがどれくらいで、ランニングコストがどれくらい削減できて、イニシャルを5年償却の間にペイできます!みたいなそろばんはじいたりもしながら。
そして、ボード層へのプロジェクト提案を乗り越えた末に念願のプロジェクト承認を得た。
こうして、システム分割を伴う、フルリニューアルプロジェクトがスタートした。
(この辺りは、また別の機会に書き起こしてみたいと思う)

初めての経験、『ユーザーPM』

システム分割を伴うリニューアルプロジェクトは、同時に3つ走り出した。
その中で2プロジェクトでユーザPM、残りの1プロジェクトはPMO、それぞれプロジェクト期間は同じですが何か?みたいなハードワークも、強いワクワクがあって、まったく苦ではなかった。
朝7時に出社して、夜の10時頃にそろそろ退社なんていう、割と高稼働な時期が続いたが、むしろ、毎日が新しい発見や、新しい出会い、大小数えきれない失敗の繰り返しで、社会人生活で一番充実してたし、一番ワクワクもしてた。もちろんドキドキ不安になることもあった。
失敗も繰り返しながらも、何とか3つともサービスインを迎えた。
(この辺りは、また別の機会に書き起こしてみたいと思う。 2回目)

達成感と共に新たな挑戦

リニューアルプロジェクトを完遂後、燃え尽き症候群になる時間もなく、ビジネスサイドへの人事異動となった。正確には、ビジネスサイドもエンジニアリングサイドも含めて、事業丸ごとを所管することに。
ワクワクした。ドキドキした。
ユーザーPMとして一定の達成感を得ていた自分にとって、この挑戦はチャンスだと感じた。

ワクワク去って、またワクワク

エンジニアリングも含め、事業全体を見るようになって1年。
会社から与えられた目標数字も、何とか全月達成を続けている中、いろいろな状況もあって別事業も所管することになった。
社内呼称は別の呼び方があったが、特定業界向けのいわゆる『広告代理業 兼 制作会社』の事業。
時を同じくして分社化が行われ、立ち上げメンバーの中でも、それなりに必要とされるポジションについた。
2事業になっても、会社から与えられた数字に対する達成責任は果たしていた。

『エンジニアリング』に対するワクワクを失いかけてた

学生時代から劣等生であって、社会人になっても決して順風満帆ではなかったなかで、怖すぎるくらい順調で充実した数年を過ごしていた。その中で、いろいろな事情が絡み合って、外部調達のエンジニアを段階的に減らしていく方針が出た。
『事業縮小』方針の決定。
手前味噌ではあるけど、上からも下からも横からも、もっと言えば斜めの立場の人からも大多数に評価され、必要とされ、感謝されている実感はあったし、自分でやるとコミットさえすれば、そう遠くないうちにもう一つ上の役職に就けたと感じている。
事業縮小という現実と向き合っても、完全撤退ではない以上、やり続ける意思があれば、それなりに上手くいく未来があったと思う。
それでも感じる、なんとなくのモヤモヤを持ち続けている中、今、この時、自分はエンジニアだと胸をはって言えるか?という自分への問いにたどり着いた。
エンジニアリングに対するワクワクが圧倒的に減っていると感じた。

では、次に何をやるか?

モヤモヤがつのり、ワクワクへの渇望のなか、適度な余裕を持ちつつも張り続けていた糸が切れる出来事があった。
別に、その状況に不満を垂らすつもりもないし、愚痴を言うつもりもなかった。あぁ、今がタイミングなんだなと思い、退職届を提出した。
もちろん、次の職場は決まっていなかったが、失敗を乗り越えてきた自信や、少しずつ蓄えてきた知識や経験で、すぐに仕事が見つかる自信はあった。
SIやSESに戻る気はサラサラなかったし、事業会社というくくりの中、何がやりたいかを考えたとき、浮かんできたのが『人材』『教育』というキーワードだった。

順調に出る内定。でもなんか違うと感じ始める。

有休消化に入って、2週間。順調に内定が出始める。
『人材』『教育』を軸に会社を探し、選び、選ばれ始めた。
どの会社もワクワクできるような事業だったし、魅力的なオファー内容だった。
それでも、なんか違うって思いが付きまとっていた。本当に感覚的なものだったけど。
モヤモヤしたときは、書き出して、可視化してみると良いと思っている。
やりたい事/やりたくない事、ワクワクする事/イライラする事。
そして見えてきたものは、人材事業でもなく教育事業でもなかった。
もっと言うと、事業内容なんてそこまでこだわってなかった事に気が付いた。

本当にやりたいことは、エンジニア組織を創り育てることだった。

紙に書きだし可視化された自分自身の思いを俯瞰した、自分自身が本当にやりたいことは、エンジニア組織を創り育てることだった。
それも、自分一人で引っ張て行く組織ではなく、自分より何か圧倒的に優れた能力や経験を持つ仲間と、考え、議論し、試行しながら、エンジニアがワクワクできる組織で、その組織を通じて、ビジネスサイドの人間も一緒にワクワクを共感できるエンジニアの組織を創り育てることだと気が付いた。

では、どこにジョインするか。それもまた悩みの種となった。

最終的には2桁に届く企業から内定をもらえたが、紙に書きだし気付いた本当に自分がやりたい事、ワクワクする事にチャレンジできそうな企業は絞られた。
定性的に絞り込んだら、定量的に絞り込めばいい。そう思い、雇用形態や制度、オファー内容はそれぞれ一長一短あり、別の迷いが出てきたので、ポジネガを書き出して点数化して比較をした。
すると、何の因果か、同点だった。

時にめぐりあわせの運もある。

そこで、最終的にはあみだくじで決めた。
これに関しては、現職の人間には当分話せないが、やりたい事が出来そうな企業に、運も手伝いジョインを決めた。

入社し1ヶ月。今思うこと。

今、久しぶりにワクワクしている。
良くも悪くも課題感が見えてきたので、できるのか?っていうドキドキもあるけど。
それも含めて、今、ワクワクしている。

これから起こす失敗、たどり着ける成功、今までの失敗、今までの成功。それをブログという形で残していってみようと思っている。